‘歴史・九州・観光’ カテゴリーのアーカイブ

九州の中部を北北東から南南西の

2010年1月18日 月曜日

方向に走っている九州の脊梁(せきりょう)山地。

紀伊山地、四国山地に続く西南日本外帯山地の一部で、古生層と中生層からなり、幅は広い所で約80キロメートル、長さは約200キロメートルに達する。

北西側は中央構造線にあたる祖母山(そぼさん)断層崖(がい)や日奈久(ひなぐ)断層崖などで中九州火山地域に接し、南東側は宮崎平野と南九州火山地域に接する。

北東部と南西部はそれぞれ豊後(ぶんご)水道・日向灘(ひゅうがなだ)北部と、八代(やつしろ)海・東シナ海に終わり、とくに豊後水道に終わる所は標式的なリアス式海岸をなしている。

大宰府は古代において西海道

2009年12月27日 日曜日

(九州)全域を行政下に置き、外寇(がいこう)の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁である。

それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。

だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。

大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。

百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。

天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。

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