大宰府は古代において西海道

(九州)全域を行政下に置き、外寇(がいこう)の防衛と外交の衝にあたる権限を与えられた官庁である。

それに類する役所の起源については3世紀、卑弥呼(ひみこ)が伊都(いと)国に一大率(いちだいそつ)を置いて大陸交渉の監察にあたらせたこともあげられるが、6世紀の前半、筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の平定後、宣化(せんか)天皇は那ノ津(なのつ)に官家(みやけ)を設け、諸臣に命じて軍粮(ぐんろう)を運輸せしめて非常に備えさせたことをあげるべきであろう。

だが、実際に「筑紫大宰(つくしのたいさい)」の名の初見は、609年(推古天皇17)である。推古(すいこ)朝は、新羅(しらぎ)問題がしばしばおこり、また遣隋使(けんずいし)派遣も始められるという外交上重要な時期だけに「筑紫大宰」の任も重かったようである。

大宰府の大きな転換期となったのは、白村江(はくそんこう)の戦い(663)である。唐・新羅の連合軍の前に、百済(くだら)の救援に赴いた日本軍は海戦で大敗した。

百済の遺臣らとともに引き揚げてきたが、ただちに唐・新羅の侵攻の脅威にさらされることになった。

天智(てんじ)天皇は対馬(つしま)・壱岐(いき)、あるいは筑紫の海岸線に沿って防人(さきもり)を配し、烽(とぶひ)を置いた。

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